私は、社会不適合である。
どんな感じの社会不適合か?
社会は、嘘で溢れている。
だから、
- 嘘をつけない
- 演技ができない
- 茶番劇に付き合いきれない
みたいなタイプは、社会不適合になりやすい。
私は、これ系のタイプだった。
私の社会不適合性を示すエピソードがある。
例えば、結婚式。
私には、ちゃんちゃらおかしくてたまらないのだ。
バージンではない女がバージンロードを歩く。
御涙頂戴の安い茶番。
どうせ1/3が離婚すること。
例えば、新卒社員を躍らせるベンチャー企業。
むず痒くて仕方がない。
くだらないと思えてしまう。
そして厄介なのは、
それらに迎合することが、
「とりあえずできる」
ということだ。
とりあえずできるからこそ、その世界のおかしさを知る。
人生、そのコースでいいのか?
そう思ってしまった。
もちろん、会社員にもいろいろあるし、結婚の仕方もいろいろある。
だが、私には、社会全般が、どうしても欺瞞じみたものに見えた。
何か、型枠にハマらないといけない感じがした。
とにかく、アンチテーゼで動いてきた。
強烈にやりたいことはなかったことが、
強烈に嫌だ・避けたいと感じたことはたくさんあった。
私たちの成功は、YESといったことより、NOといったことに関係していることが多い。
過去を振り返って、どうして今の自分があるのだろう、と思うことがある。
そして、冷静に分析すると、
「運が良かった」
の一言に尽きると思う。
もちろん、死ぬほど努力はしたが、死ぬほど努力したとて結果がついてくることばかりじゃないのは知っている。
死ぬほど努力したけどダメだった体験もある。
だから、正直に言うと、私は運が良かったのだと思う。
確信もあった。
戦略もあった。
自信もあった。
でもそれと同じくらい、
不安だった。
開き直っていた。
諦めていた。
体当たりみたいな感覚だった。
運の存在は、残念ながら、ある。
これは科学的にも認められていて、世の中の成功とやらは、かなり運に左右されている。
言い換えると、どれだけ実力があっても、運が悪いとどうしようもないのだ。
運はある。
確かにある。
かといって、「全て運だ」と開き直ってしまっても、何もやってこない。
運が全てと考えて、パッシブになってしまっても、何もやってこない。
成功は、ナンパに似ているのだ。
ナンパというのは、声をかけないと成功しない。
声をかけ続けないとダメだ。
でも、声をかけたからと言って成功するわけじゃない。こういうゲームだ。
結局私たちは、
「人事を尽くして、天命に委ねる」
しか無いのだと思う。
そして、その天命に従うしかないのだと思う。
私はつくづく、そう思う。
そして、変な話だけれど、
運を手繰り寄せるたった1つの方法
というのがあって、
それが、
「世の中は運ではないように振る舞う」
ということである。
要するにこれはサッカーと似ている。
ラッキーボールが転がってきた時、それを決められるかどうかは、実力次第なのだ。
でも、運といえば運だ。
成功者は、成功を生み出すのではない。
成功する条件を生み出すのだ。
あとは、運を味方につける。
運を掴むには、良い時に、良い場所にいることだ。
そして、行動をすることだ。
あなたにパスを送ってくれる人たちは、あなたを知り、理解し、信頼してくれないとパスをくれない。
例えば、お金はパスだ。
そして、パスをもらったら、それをそのままホールドし続けてはいけない。
なんらかの形で返さないといけない。
しかもうまいところに。
いい感じに。
こうやって、ゲームは回っている。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。